「ももいろクリスマス2011 さいたまスーパーアリーナ大会」LIVE DVDはその名前の通りで、2011年12月25日にももいろクローバーがさいたまスーパーアリーナで開催したライブを収録したDVD。(おそらく完全収録)
ぶっ通しで観て、どっしりとした感動と、その後でもやもやとした後ろめたさを感じた。
ここでは特に、その後ろめたさについての妄想を書く。

*****

ももクロの他のアイドルと異なる点は、歌うことをもともと想定していないような激しい振り付けを汗を流しながら踊り、息を切らせながら、あくまでも実際に歌うところである。(口パクではなく。もともと口パク自体はよく行われていたことだろうが、Perfumeの登場で可視化された現在では十分に特異な点として挙げることができる)

このDVDは、200分超のボリュームで彼女たちのひたむきなパフォーマンスを記録し続けている。アンコールの最後の曲で、1万人のファンの歓声、熱が最高潮となり、彼女たちと一体となって踊る場面がクライマックスで、ももクロのひたむきさが報われていくその瞬間を観て、感動し、安堵感を覚えた。
ただその次の瞬間、そのひたむきさを商品として消費している自分に対して不健全さを感じていることに気付いた。

もちろん、ひたむきさを売りにしたコンテンツはずっと昔から存在しており、映画や小説、演劇を通して感動を買うという行為自体珍しいことではない。
後ろめたさの原因は、彼女たちのライブが他のアイドルに比して生々しかったことによるものなのだと考えている。

従来、アイドルに要求されているのは「可愛い」とか「萌」とか「きれい」とかそういった概念である。アイドルは、その抽象的な概念をキャラという形で象徴することとなる。ここでは、アイドルとしてのキャラと本人のパーソナリティーにはずれが発生する。
アイドルのライブにおいては、基本的にはキャラがずれることがないよう振る舞う必要があることから、多かれ少なかれ演劇的にならざるをえない。
(記録映像ならともかくとして、)映画や演劇がフィクションであることは、観客が消費する上でほとんど無意識的な前提であり、それは現在アイドルであっても同様であると言うことができるだろう。

他方、ももクロのライブを観て感じる「若さに依拠した一過性の魅力」「全力さ」といった要素は、どちらかと言えば、甲子園の「高校球児たち」が負けたら終わりの舞台で白球を「精一杯追いかける」姿のようであった。
メディアに出る上では、色という最も単純なキャラ付けをされている彼女たちではあるけれども、そのライブで見せているものは何かを目指し生身の少女が限界まで力を振り絞るひたむきな姿であり、それはさながらアスリートの姿である。
この生々しさが、「アイドルのライブDVD」が作りものであるという無意識的な前提を不意に明示した。そして、その生身のももクロを、通常通りキャラ的に消費することができなかったことが、自分に後ろめたさを感じさせている。

*****

従来通りのアイドルとしての消費ができなくなってしまったのであれば、距離の取り直しが必要なんだろうと思う。
見当はつかないけれども、「出費による応援を通してアイドルを身内的に捉える」「芸能界を生き残らなければいけないという状況をアイドルの前提として取り込み、ひたむきさをキャラの一つとして捉える」とかだろうか。
(1番目は既にほとんど全てのアイドルが前提としているけど)
JUGEMテーマ:音楽


| - | 16:59 | comments(0) | trackbacks(0)
3月末に発売された第3期DCPRG初のスタジオアルバムのリリースパーティーはアルバムに参加したSIMI LAB、大谷能生をそのまま客演に迎え開催。
最新作「SECOND REPORT FROM IRON MOUNTAIN USA」は怪作というか、非常にとっ散らかっていて、ライブでどう演奏するかというのは大きな関心であったのだけど、参加メンバーとの客演により完全に再現の方向。従来からのレパートリーも加えて、今までのDCPRGライブの中でも最もサービス精神にあふれたものとなった。
SIMI LABの客演もあってか、客層は若くなった印象。

セットリストは以下の通り。
1.殺陣
2.PLAYMATE AT HANOI
3.CIRCLE/LINE
4.CATCH 22
5.MICROPHONE TYSON
6.UNCOMMON UNREMIX
7.構造1
8.DURAN
<アンコール>
9.MIRROR BALLS/The Blues
JUGEMテーマ:音楽


続きを読む >>
| ライブレポ | 09:47 | comments(0) | trackbacks(0)
現在開催中の国際舞台芸術祭「フェスティバル/トウキョー」のプログラムの一つ、五反田団の演劇「迷子になるわ」を観る。
五反田団の脚本・演出の前田司郎は最近では「グレート生活アドベンチャー」「夏の水の半魚人」等の小説も執筆している人。

雑誌「エクス・ポ」第2期第1号の演劇特集を読み、ようやくの初演劇鑑賞。

*****

「迷子になるわ」は主人公の30くらいの女性が、自分自身の過去の場面や妄想や未来を脈絡なくぐるぐると回っていく物語。現代口語演劇と呼ばれる演劇全般がそうである(らしい)ように、大きな物語の起承転結を描くのではなく、日常生活の中の何気ない場面や何気ない会話が続いていく演劇。

そういった中で「迷子になるわ」の特異な点は、各場面の脈絡のない転換にある。
例えば、大学時代の知り合いの知り合いとデートしているシーンの途中、東京タワーまでの距離を道行く人達の身長から推し量ろうとする場面で突然エプロンをしたばかでかいお母さんが現れ、気がつくと知り合いはいなくなってしまって、家で母親と一人暮らしをしようか迷っているシーンへと移り変わったりする。
こうした場面の転換が連続して行われながら舞台が進んでいく。

この場面の移り変わり方は、人が何かを思い出したり、ぼんやりと考える時のプロセスそのもののように感じる。
人が何かを思い出すとき、一つ一つ昔の状況を並べていくということはあまりなく、実際にはある思い出の一部分から連想された別の思い出へと次々にジャンプしていくのが大半なのではないだろうか。
こう考えると、この舞台は主人公のぼんやりとした考え事そのものであるといえるし、また、人が考え事をするプロセスが実際は迷子になることであると言えるのではないかと思う。

*****

舞台のクライマックス近くで、時間は過去から未来へと一つの線として流れているのではなく、面のように様々な場所を行ったり来たりしているのではないかというような印象的なセリフが登場する。
このセリフを踏まえれば、過去の場面だけでなく妄想や来るか分からない未来が次々に現れるこの舞台は、面としての時間を表したものとして考えることができる。
(同じ面に様々な時間が登場することは、イスが規則的に並べてある中に一つのベッドと天井まで吊るされた赤いロープがあるだけのセットで最初から最後まで演劇が行われることからも担保されている。)

関連して、継続的に登場する「東京タワー」は面のあちこちに散らばる時間の中で、(迷子にならないために)目印のように立っているものなのではないかと感じた。

*****

とまあ、このようにつらつらと書きましたが、笑えるところも真剣に考えさせられるところもあり、演劇慣れしていない自分でも率直に楽しめました。
来年のはじめに五反田団はメッセージもストーリーもない非常に気軽な演劇を上演するとのことで、こちらも楽しみ。
| - | 00:04 | comments(4) | trackbacks(0)
PROFILE
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK
LINKS
LIFE STRIPE
OTHERS
無料ブログ作成サービス JUGEM